八月下旬。太陽が容赦なく照りつける昼下がり、塩尻市に突入した。13時40分、平出遺跡に到着。駐車場に車を停めると、アスファルトからの照り返しで靴底が溶けそうだ。
縄文から平安まで、五千年分の村が並んでいる贅沢
平出遺跡というのは、要するに「日本史の教科書に出てくる時代がほぼ全部揃っている」という、歴史好きには堪らない場所である。縄文時代から平安時代まで、人々がここに住み続けた。発見された住居跡は計199軒。昭和25年から今まで掘り続けているというから、考古学者の執念というものは恐ろしい。
13時50分、まず「古墳時代の村」へ。
復元された竪穴住居を見る。約1300年前の家だ。4本の柱で支えられた屋根が地面まで達している。「屋根だけの家」と説明にある。なるほど、壁というより屋根が全部、という感じだ。入口は南向き。室内左手にはカマドがある。
考えてみれば不思議なもので、縄文時代も古墳時代も、基本的な家の造りはあまり変わっていない。技術革新の遅さ、というべきか、「これで十分」という達観というべきか。現代人が毎年のようにスマホを買い替えているのとは、時間の流れ方が違う。
大型住居や高床式倉庫が並んでいる。高床式倉庫は私有倉だという。「俺の米」という概念が、すでにこの時代にあったわけだ。周囲にはモモ園が復元されている。古墳時代の有力者は、モモを食べながら権力を誇示していたのだろうか。
縄文のピークは五千年前
14時、「縄文の村」へ。
ここが平出遺跡のハイライトだ。縄文時代の早期から晩期まで、ほぼ全期間の痕跡があるというが、最も栄えたのは中期、約5000年前。110軒以上の住居跡が見つかっている。
茅葺き屋根の住居が7軒、弧を描くように並んでいる。周囲はドングリ林。南側には立石を据えた広場がある。信仰の対象だったという。
ドングリ林というのがいい。縄文人の主食はドングリだった。この林で秋になるとドングリを拾い集め、灰汁抜きをして、すり潰して、クッキーのようなものを作った。想像するだけで気の遠くなるような作業だが、彼らにとってはそれが日常だった。
14時5分、「廃絶住居のムラ」エリアへ。
地面に無数の窪みがある。クレーターのように見えるこの窪地は、かつてここに竪穴住居があった跡だ。住居は十数年使われ、時には建て替えられ、やがて使われなくなる。「廃絶」という言葉が何とも物悲しい。
廃絶された後、半地下だった部分は少しずつ土で埋まり、浅い窪地になる。つまり、縄文の村には「今住んでいる家」と「昔住んでいた家の痕跡」が混在していたわけだ。まるで記憶が地層になっているようだ。
平安時代、村は広がる
14時10分、「平安時代の村」へ。
平安時代になると住居は遺跡全体に広がり、50軒以上の住居跡が発見されている。ここでは「1戸」と呼ばれる複数家族の住居群を復元している。ニワ(庭)を中心に4棟の住居と1棟の納屋。周囲には畑や林が取り囲む。11世紀前半の農村風景だ。
縄文時代の弧状配置から、平安時代のニワを中心とした配置へ。村の形も時代とともに変化する。人々の暮らし方、家族のあり方が変わったのだろう。
14時半、ガイダンス棟を出る。汗が止まらない。
五千年の命の水
14時35分、「平出の泉」に到着。
これだ。これがなければ、この五千年の歴史はなかった。
石灰岩の空洞に集まった伏流水が、鍾乳洞の出口から湧き出している。水温はほぼ一定。清冽な水が湧き続けている。長さ63メートル、幅36メートル、最深部6メートル。
今の堤は江戸時代に用水として築かれたものだが、この泉自体は大昔からここにあった。縄文人も古墳人も平安人も、みんなこの水を飲んだ。この水で米を炊き、この水で顔を洗った。
泉のほとりに立って、水面を見つめる。
五千年。
人間の一生が百年として、五十世代分だ。五十人の人生が連なって、ようやく届く時間。その全てが、この水のそばにあった。
14時43分、再出発。
振り返ると、復元された竪穴住居が木立の間に見えた。あそこで誰かが生まれ、誰かが死んだ。ドングリをすり潰し、火を焚き、子供を育て、老いていった。その営みが何千回も繰り返されて、今、僕がここに立っている。
考古学というのは、つまり、忘れられた人々の日常を思い出す作業なのかもしれない。



