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木曽の桟―命がけの橋渡り、今は絶景スポット

昔の木曽の桟を渡るなりさん

長野県上松町。国道19号を走っていると、突然現れる立派な石垣。これが中山道三大難所のひとつ、「木曽の桟」である。

「三大難所」と聞いて、ピンとくる人は歴史好きだろう。木曽の桟、太田の渡し、碓氷峠。この三つが江戸時代、旅人を震え上がらせた中山道の恐怖スポットだった。

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別名「はばかりの桟」―名前からして怖い

木曽の桟の別名は「波計の桟(はばかりのかけはし)」。つまり「憚る(はばかる)橋」である。渡るのを躊躇する、遠慮したくなる、できれば避けて通りたい―そんな意味だ。

想像してほしい。断崖絶壁に丸太を突き刺し、その上に板を渡しただけの通路を。しかも結わえているのは藤蔓。足元からは木曽川の激流が見える。一歩踏み外せば、文字通り奈落の底だ。

これを「橋」と呼んでいいのか。いや、呼ぶしかなかったのだろう。ほかに渡る方法がなかったのだから。

芭蕉も子規も恐怖を詠んだ

平安時代の『今昔物語集』にすでに記述があるというから、この難所の歴史は古い。応永7年(1400年)から14年(1407年)にかけて、長さ約109メートルの桟道が設けられた。

この桟道、文人たちにとっても絶好の(?)ネタになった。

松尾芭蕉は「桟や命をからむ蔦かつら」と詠んだ。命綱のように蔦や葛に縋りつく姿である。俳聖・芭蕉をもってしても、この桟道は怖かったのだ。

正岡子規は「かけはしやあぶない処に山つつじ」。危険な場所に咲く花。対比が効いている。そして空仁という人の「恐ろしや木曽のかけぢの丸木橋ふみみるたびに落ちぬべきかな」は、もはや悲鳴に近い。

長野県歌『信濃の国』の4番にも「木曽の桟かけし世も」と出てくるから、地元の人々にとっても誇りと恐怖が入り混じった存在だったのだろう。

焼失、そして石垣化という進化

ところが正保4年(1647年)、この桟道は焼失してしまう。原因は通行人の松明の火。木と藤蔓でできた構造物だから、ひとたび火がつけば全焼である。

翌年、尾張藩が875両(現代の貨幣価値で数千万円か)をかけて、石垣に改修した。長さ約102メートル。中央部には木橋を残したが、大部分は石積みになった。

その後、寛保元年(1741年)と明治13年(1880年)の二度の大改修を経て、木橋下の空間もすべて石積みに。明治44年(1911年)、国鉄中央線工事のため、最後まで残っていた木橋も撤去された。

つまり、現在残っているのは「石垣化した元・桟道」なのである。かつての恐怖の桟道は、堅牢な石垣に生まれ変わった。

今は絶景と温泉が待っている

現在、木曽の桟は長野県の史跡、日本百名橋の番外として指定されている。国道19号のバイパス整備で旧道の一部が保存され、立派な石垣が当時の面影を伝えている。

周辺には赤い鉄骨製の橋「かけはし」、対岸の木造橋「木のかけはし」が架かり、木曽八景のひとつに数えられる景観を形成している。かつて旅人が恐怖で足を震わせた場所は、今や絶景スポットだ。

近くには桟温泉もある。江戸時代の旅人が「やっと渡り切った…」と安堵のため息をついたように、現代の旅人も温泉で旅の疲れを癒せる。ただし現代人が癒すのは、ドライブの疲れであって、命がけの橋渡りの疲れではないのだが。

JR上松駅から車で約5分。気軽に行ける。ぜひ立ち寄って、石垣を見上げてほしい。そして想像してほしい。ここに板と丸太だけの桟道が架かっていたことを。足が竦む感覚を、少しだけ味わえるはずだ。

なりさん

木曽の桟
 渡りし人の 夢の跡


木曽の桟 基本情報

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項目内容
名称木曽の桟(きそのかけはし)
別名波計の桟(はばかりのかけはし)
所在地長野県木曽郡上松町上松
指定長野県史跡、日本百名橋番外
歴史応永7-14年(1400-1407年)桟道設置、正保4年(1647年)焼失、
慶安元年(1648年)石垣化、明治44年(1911年)木橋撤去
構造当初は木製桟道、後に石垣(長さ約102m)
関連施設桟温泉、かけはし(赤い橋)、木のかけはし
文学松尾芭蕉、正岡子規などの句碑あり
アクセスJR中央本線上松駅より車で約5分、国道19号沿い

木曽の桟の写真集がこちら▼

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